2006年 07月 12日
Excite スポーツニュース : 決勝退場のジダンがMVP W杯ドイツ大会
あの、愚かな頭突きで一発退場のジダンが何故MVPなんだ?と疑問の向きも多いようだ。「暴力絶対反対」とプロスポーツの世界を自分の属する日常社会と重ね合わせて理解しようしてもそれは無理というもの。ポイントは「記者投票によって選ばれた」という部分であると私は見る。
スポーツジャーナリストはいい記事を書く為には選手と日常的なコミュニケーションはもちろん、そのスポーツの本質やプレーひとつひとつの意味を理解しなきゃならないし、選手の置かれている位置やそのメンタル部分についても深く理解しなければならない。そうして自分の取材した相手にはリスペクトを越えた家族のような愛も感じるという。しかし、しばしば彼らの書く文章にはそれが反映されないことがある。それはジャーナリストとしての立場だったり、メディアの方針だったりするのだが、人間としての自分の本音を記事にできないことがたくさんあるだろう。
例えば、野球でデッドボールに怒ったバッターが投手に詰め寄り乱闘になった場合、解説者は必ず「これはいけませんね!」という。決して「怒って当然です」とは言わない。そう思っていても言えないのだ。中には「大リーグなんかでは、やられたらやり返す、というのが当たり前だと言われますが、これはいけません」などとささやかな抵抗を示す人もいるが。
何故かというと、本音を言った瞬間にテレビ局に抗議が殺到し、その解説者は職を失う、ということがわかっているからだ。
あるプロ野球OBが話してくれたのだが、「だって当たりどころによっては死ぬんですよ!150キロで飛んでくる硬球が頭をかすめたことありますか?プロ野球選手ってのは死と隣り合わせで仕事してるんです。怒るのは当然ですよ!」と言っていた。平穏無事に生きている我々の世界とはあまりにもかけ離れた世界が彼らの日常で、こんな話を普段オフレコの席でスポーツジャーナリストはゴマンと聞いているはずだ。
かつては「乱闘は試合の花」なんて言われた時代もあったが、このように体裁を繕うようになったのはプロスポーツがアマチュアリズムに接近するようになってからだと思う。アマチュアスポーツは青少年にとっては教育の場で、プロにとっては競技の底辺を広げるのには絶対にアマチュアのレベルアップが必要、ということで双方、いや、プロ側が一方的に歩み寄ったのだ。さらに、特に女性にプロスポーツファンになってもらうには暴力的イメージを排除する必要があった。そうすることによって、プロスポーツはビッグビジネスたり得るのだ。
スポーツマンシップや爽やかなイメージというのはこうした演出のもと大衆に刷り込まれていき、プロスポーツファンは増えていった。しかし、断言するが
プロスポーツの本質はそこにはない。
プロスポーツを観るという行為は、ローマ貴族がコロッセオで剣闘士を観るようなものだ、と私は思う。その本質を人々に思い出させるような行為は、スポーツ振興を掲げる人達にとってはタブーなのだ。だから、FIFAの中の人間による選出だったら決してジダンをMVPには選ばなかったに違いない。
今回のMVP選出は、記者による「投票」だったからこそではないか。署名記事を書かずにすむ「投票」という形だったからこそ、記者の本音が反映された、と私は思う。記事では「愚かな行為」「恥」とまで書きながら、実は本音の部分では「そんなに大したことか?」と思っているのではないか。
最後にもう一度言っておきたいのは、プロスポーツの世界を自分たちの平々凡々とした日常に重ね合わせても何ら答えは見えてこない、ということだ。住む世界が違うのだから。
あの、愚かな頭突きで一発退場のジダンが何故MVPなんだ?と疑問の向きも多いようだ。「暴力絶対反対」とプロスポーツの世界を自分の属する日常社会と重ね合わせて理解しようしてもそれは無理というもの。ポイントは「記者投票によって選ばれた」という部分であると私は見る。
スポーツジャーナリストはいい記事を書く為には選手と日常的なコミュニケーションはもちろん、そのスポーツの本質やプレーひとつひとつの意味を理解しなきゃならないし、選手の置かれている位置やそのメンタル部分についても深く理解しなければならない。そうして自分の取材した相手にはリスペクトを越えた家族のような愛も感じるという。しかし、しばしば彼らの書く文章にはそれが反映されないことがある。それはジャーナリストとしての立場だったり、メディアの方針だったりするのだが、人間としての自分の本音を記事にできないことがたくさんあるだろう。
例えば、野球でデッドボールに怒ったバッターが投手に詰め寄り乱闘になった場合、解説者は必ず「これはいけませんね!」という。決して「怒って当然です」とは言わない。そう思っていても言えないのだ。中には「大リーグなんかでは、やられたらやり返す、というのが当たり前だと言われますが、これはいけません」などとささやかな抵抗を示す人もいるが。
何故かというと、本音を言った瞬間にテレビ局に抗議が殺到し、その解説者は職を失う、ということがわかっているからだ。
あるプロ野球OBが話してくれたのだが、「だって当たりどころによっては死ぬんですよ!150キロで飛んでくる硬球が頭をかすめたことありますか?プロ野球選手ってのは死と隣り合わせで仕事してるんです。怒るのは当然ですよ!」と言っていた。平穏無事に生きている我々の世界とはあまりにもかけ離れた世界が彼らの日常で、こんな話を普段オフレコの席でスポーツジャーナリストはゴマンと聞いているはずだ。
かつては「乱闘は試合の花」なんて言われた時代もあったが、このように体裁を繕うようになったのはプロスポーツがアマチュアリズムに接近するようになってからだと思う。アマチュアスポーツは青少年にとっては教育の場で、プロにとっては競技の底辺を広げるのには絶対にアマチュアのレベルアップが必要、ということで双方、いや、プロ側が一方的に歩み寄ったのだ。さらに、特に女性にプロスポーツファンになってもらうには暴力的イメージを排除する必要があった。そうすることによって、プロスポーツはビッグビジネスたり得るのだ。
スポーツマンシップや爽やかなイメージというのはこうした演出のもと大衆に刷り込まれていき、プロスポーツファンは増えていった。しかし、断言するが
プロスポーツの本質はそこにはない。
プロスポーツを観るという行為は、ローマ貴族がコロッセオで剣闘士を観るようなものだ、と私は思う。その本質を人々に思い出させるような行為は、スポーツ振興を掲げる人達にとってはタブーなのだ。だから、FIFAの中の人間による選出だったら決してジダンをMVPには選ばなかったに違いない。
今回のMVP選出は、記者による「投票」だったからこそではないか。署名記事を書かずにすむ「投票」という形だったからこそ、記者の本音が反映された、と私は思う。記事では「愚かな行為」「恥」とまで書きながら、実は本音の部分では「そんなに大したことか?」と思っているのではないか。
最後にもう一度言っておきたいのは、プロスポーツの世界を自分たちの平々凡々とした日常に重ね合わせても何ら答えは見えてこない、ということだ。住む世界が違うのだから。
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by mo_ura
| 2006-07-12 00:51
| 社会
